1936 |
4月10日、父・和田精、母・文の次男として大阪市東住吉区で生まれる。和田精は日本における音響効果の先駆者で、築地小劇場創立メンバーの一人として音響や照明、舞台装置を担当した。 |
1940 |
中耳炎を患ったこともあり、外で遊ぶことよりも、絵を描いて遊ぶことが多かった。落書きしたものを母が綴じてくれて、はじめての作品集ができた。 |
1943 |
大阪市住吉区(現・阿倍野区)長池国民学校入学。戦時中のため体育教育が盛んだったが、運動はまるで苦手。絵や工作もあまり得意ではなかった。 |
1945 |
日本放送協会大阪中央放送局のラジオのディレクターであった父親が職場を解雇され(戦意高揚ドラマに意見を言ったのが原因と言われている)、東京世田谷の実家に移る。その後すぐ千葉県の親戚の家に疎開し、終戦を迎える。 |
1946 |
世田谷の代沢小学校に転入後、担任の柳内達雄先生に勧められ文集のカットを描く。先生の影響で新聞に掲載されていた清水崑の政治漫画を知り切り抜きを始める。 |
1947 |
漫画が初めて児童雑誌に掲載される。 |
1949 |
世田谷区立富士中学校へ入学。映画の好きな同級生と月に2、3回映画を見に行くようになる。絵を描くのに夢中で、勉強は全然できなかった。1年間、コマ漫画を児童雑誌に連載する。 |
1952 |
東京都立千歳高校入学。同級生と、似顔絵で構成した漫画「西遊記」を描く。 |
1953 |
先生の似顔絵で時間割表を作ったり、学園祭では舞台の構成・演出を担当したり、創作活動に夢中に。ヘルベルト・ロイピンやドナルド・ブルンに惹かれ、ポスターを作る人になりたいと思った。 |
1954 |
友人からソール・スタインバーグの画集を借り、全ページを模写。ディズニーのファンクラブに入る。 |
1955 |
多摩美術大学図案科入学。杉浦非水に学ぶ。興和新薬の蛙のカットコンクールに応募、一等賞をとる。賞金3万円でカメラを買う。 |
1957 |
第7回日宣美展で「夜のマルグリット」のポスターが日宣美賞を受賞。これをきっかけに似顔絵と、TVコマーシャルのアニメーションの仕事依頼が入る。 |
1958 |
第8回日宣美展でレコードジャケットのデザイン数点を出品し、奨励賞受賞。日本専売公社より、車内吊りポスター「各人各煙」を依頼され制作。一度電通に内定したが辞退し、ライトパブリシティに就職する。卒業制作では、詩人・野上彰の詩集のブックデザインをする。 |
1959 |
ライトパブリシティに入社。日活名画座ポスターを9年間無料で制作(~1968年)。翌年、このポスターをきっかけに、ハードボイルド専門の雑誌「マンハントの」に挿絵を描くことになる。NHK子ども番組の制作を依頼され、中原収一、小薗江圭子らとオムニバス形式でアニメーションを制作。宮沢賢治の「オッペルと象」をテーマにした。日宣美展で「アメリカ映画史講座」連作ポスターが入選し、日宣美会員となる。 |
1960 |
指名コンペにてパッケージデザインが採用された、たばこ「ハイライト」が発売になる。初めての自著「21頭の象」(ライトパブリシティ)を出版。映画「乾いた湖」(監督・篠田正浩)のタイトルデザインを手がける。東洋レーヨンの広告がADC年鑑の銀賞を受賞。動画とライブの音楽をシンクロさせる画期的なアニメーション「童夢」を制作。 |
1961 |
「ジャズをたのしむ本」(編・寺山修司、湯川れい子)で初めて装丁を手がける。NHK「みんなのうた」初回放送の「誰も知らない」(詩・谷川俊太郎、曲・中田喜直、歌・楠トシエ)のアニメーションを制作。たばこ「ピース」の雑誌シリーズ広告を土屋耕一(コピーライター)と共に制作開始。替え歌を作るのに月給4万円の時代に17万円のピアノ購入。 |
1962 |
NHK「みんなのうた」で「ビビディ・バビディ・ブー」「ねこふんじゃった」などを制作。同局子ども番組のお伽話アニメーション「したきりすずめ」制作。日活名画座ポスターと草月ミュージック・インのポスターがADC賞銅賞受賞。 |
1963 |
自費出版の絵本制作を開始(第1号「がらすのお城」文・高橋睦郎)、1966年までに全7冊刊行。雑誌「漫画読本」の表紙デザインを手がける(写真・篠山紀信)。 |
1964 |
「アニメーション三人の会」(久里洋二、柳原良平、真鍋博)に委託され、短編アニメーション映画「殺人! MURDER!」を制作。翌年第19回毎日映画コンクール大藤信郎賞受賞。横尾忠則、宇野亞喜良とともに東京イラストレーターズ・クラブ設立。自費出版絵本「山太郎」(文・川路重之)がラジオ・ミュージカルになり2曲を作曲する。 |
1965 |
雑誌「話の特集」創刊。アートディレクターを担当し(~1995年)、表紙に横尾忠則を起用。 |
1966 |
「吉行淳之介軽薄対談」で似顔絵を描き始め、現在の手法を確立。 |
1967 |
天井桟敷第2回公演「大山デブコの犯罪」で寺山修司の詩に曲をつける。「映画の友」に連載をもつ。NHKみんなのうた「四人目の王さま」(作詞・高橋睦郎、作曲・和田誠、編曲・八木正生、歌・坂本九)を制作。1965年出版の歌の絵本が元。 |
1968 |
ライトパブリシティを退社し、独立。青山に事務所を構える。「週刊サンケイ」の表紙の似顔絵を担当する(~1973年)。 |
1969 |
日本宣美展審査員に選ばれる。審査中、学生たちが乱入し日宣美騒動となる。寺山修司制作レコード「初恋地獄篇」作曲を担当。演出家の藤田敏雄と出会い、ピンキーとキラーズのリサイタルで、10分のショー構成・演出を手がける。後に吉永小百合、デューク・エイセスなどのショーを手がける。「週刊サンケイ」表紙の似顔絵などが評価され第15回文藝春秋漫画賞受賞。初個展「PEOPLE~和田誠肖像画展~」を開催。初めてロットリングを使う。 |
1970 |
羽仁進監督の映画「恋の大冒険」のタイトル・アニメーション、主題歌の作詞を手がける。自身が作曲した作品をまとめたLP「眠りの国」(作詞・高橋陸郎、編曲・八木正生、唄・岸洋子、装丁・山城隆一)を自費出版。万博住友童話館アトラクションの市川崑監督人形劇「プペドン」の人形デザインをする。 |
1971 |
日本新薬の新聞広告を手がけ、1996年まで続くロングラン広告になった。 |
1972 |
装丁を手がけた「ぐうたら人間学」(著・遠藤周作)がベストセラーとなり装丁の仕事が増える。平野レミと結婚。 |
1973 |
「キネマ旬報」連載エッセイ「お楽しみはこれからだ」が始まり、第1回キネマ旬報読者賞受賞。 |
1974 |
似顔絵集「PEOPLE」(美術出版社)が第5回講談社出版文化賞ブックデザイン賞受賞。 |
1975 |
長男誕生。「お楽しみはこれからだ」(文藝春秋)の単行本化が始まる(~1997年/全7巻)。自作の陶器(ライオン)が報知新聞社主催の報知映画賞のトロフィーになる。 |
1976 |
「いつか聴いた歌」の連載開始。「ポスターランド」(講談社)出版。個展「和田誠スクリーン・グラフィティ」。 |
1977 |
雑誌「週刊文春」の表紙イラストレーションとデザインを担当する(アンコール企画を含めて2025年まで)。 |
1978 |
「和田誠百貨店」(美術出版社)出版。大林宣彦監督「金田一耕助の冒険」オープニングアニメーション制作。TBSのTVアニメーション「ロード・トゥ・ウエストサイド」を制作。翌年1月に映画「ウエスト・サイド物語」がテレビで初放送される時に流れた。 |
1979 |
次男誕生。映画「ジョルスン物語」のスーパーインポーズ(翻訳)をかってでる。山本益博が企画して、和田誠寄席(紀伊國屋ホール)を行い、和田の創作落語4編を上演。個展「和田誠百貨展」「週刊文春20周年・表紙原画展」。 |
1980 |
映画に関わるイラストレーションでイマジカのカレンダーを制作。2007年まで続く。 |
1981 |
「小説新潮」連載・丸谷才一「あゝ文士劇」で第12回講談社出版文化賞さしえ賞受賞。フジテレビTV番組「ゴールデン洋画劇場」タイトルアニメーションを制作。 |
1982 |
「ビギン・ザ・ビギンー日本ショウビジネス楽屋口ー」(文藝春秋)を出版、第9回角川文化振興財団日本ノンフィクション賞受賞。シアターアプル自主公演のポスター制作を担当(~1998年)。自著「いつか聴いた歌」をテーマにしたショーを企画構成。個展「絵皿展」。 |
1983 |
長男との共著「親馬鹿子馬鹿」(講談社)出版。映画「麻雀放浪記」のシナリオを書き始める。 |
1984 |
映画「麻雀放浪記」を初監督し、第9回報知映画賞新人賞受賞。自らがデザインしたトロフィーを受け取る。第5回山路ふみ子文化財団特別賞受賞。 |
1985 |
「新人監督日記」(角川書店)を出版。科学万博-つくば’85ポスターを手がける。個展「スクリーン・グラフィティ」。 |
1986 |
海洋学者の水木桂子と沖縄の珊瑚礁保護のための絵本「エリセラさんご」(リブロポート)を出版。NTT「トークの日」がスタート。ロゴ・マークの他、イベントポスターは1994年まで100回分を制作。 |
1987 |
国際アニメーションフェスティバル広島大会の招待作品としてアニメーション「怪盗ジゴマ 音楽篇」(作詞・寺山修司、編曲・八木正生、歌・由紀さおり他)を制作。監督、絵、作曲を担当。 |
1988 |
映画「快盗ルビイ」で、監督、脚本、挿入歌の作詞作曲を担当。第31回ブルーリボン賞監督賞受賞。 |
1989 |
「マザーグース」を自ら翻訳していたものをまとめた「オフ・オフ・マザーグース」(筑摩書房)を出版。その後、CD化。120人に1曲ずつ歌ってもらう(作曲=櫻井順)。 |
1990 |
事務所を神宮前に移転。NHKのTVドキュメント「吉永小百合 夢一途」演出。オランダの種子会社ロイヤル・ファンデルハフェ・グループのロゴ・マークを制作。個展「THE DICTIONARY」。 |
1991 |
日本生命のTVコマーシャルを演出(7篇/出演・真田広之)、作曲も和田の手によるもので、吉永小百合がピアノを弾いた。日本のポスター100展に参加。個展「3D」。 |
1992 |
かつしかシンフォニーヒルズのポスター制作が始まる。30本のオープニング公演を皮切りに2002年まで。毎日新聞の書評欄「今週の本棚」の挿絵を担当(~2018)。個展「JAZZ」、グループ展「灘本唯人・宇野亜喜良・和田誠・山口はるみ展」。 |
1993 |
オムニバス映画「怖がる人々」の脚本、監督、挿入歌の作詞、作曲を手がける。駆け出し時代の銀座での生活を綴った「銀座界隈ドキドキの日々」(文藝春秋)で第9回講談社エッセイ賞受賞。本書で著作が100冊となり記念パーティを開催。個展「装幀・挿絵・原画展」。 |
1994 |
幅広い活動が評価され第42回菊池寛賞受賞。絵本「そらをとんだたまごやき」(文・落合恵子)が第41回産経児童出版文化賞受賞。版画家・山本容子に版画を習う。 |
1995 |
かつしかシンフォニーヒルズで「WADA MAKOTO PRESENTS ザッツ・ミュージカル」開催。東京イラストレーターズ・ソサエティ展覧会のためにJR山手線全駅を描く。個展「旧約聖書」「STAMPS」。 |
1996 |
短編映画「ガクの絵本」の脚本、監督を手がける。小学校各学年国語の教科書上下巻の表紙、目次を手がける。個展「シンフォニーヒルズプログラムアー ト展'96」。 |
1997 |
フジテレビドラマ「3番テーブルの客」を演出。フジテレビ「ゴールデン洋画劇場」タイトルアニメーション(新版)を制作。絵本「ねこのシジミ」(ほるぷ出版)が第3回日本絵本賞受賞。個展「旅」「SING」「時間旅行」(時間旅行展は第43回毎日デザイン賞特別受賞)。 |
1998 |
プラネタリウム「ぬすまれた月」の脚本・絵を担当(語り・大竹しのぶ、音楽・道下和彦、制作・ミノルタプラネタリウム)。三谷幸喜との連載対談「これはまた別の話」(キネマ旬報社)が第26回キネマ旬報読者賞受賞。山本容子と2人展「2人のシネマ」、個展「和田誠シネマパレス」。 |
1999 |
映画「真夜中まで」の脚本、監督を手がける(2001年公開)。切手「わたしの愛唱歌シリーズ」の一つ「上を向いて歩こう」をデザイン。個展「JAZZ 2」「ガクの絵本のエッチング」。 |
2000 |
「世田谷フィルムフェスティバル」のポスターを担当。2009年11回目まで手がける。朝日新聞にて連載「三谷幸喜のありふれた生活」の挿絵が始まる。表具師、麻殖生素子と2人展「マザーグース軸装展」、個展「和田誠 絵本原画展」。 |
2001 |
安西水丸と2人展「NO-IDEA」。以降2004年から毎年二人展を行い、安西が没する2014年まで続く。麻殖生素子と2人展「掛け軸による新たな世界」、個展「文学者たち」。 |
2002 |
第23回日本宣伝賞山名賞受賞。新文芸坐で長編短編全7作品を上映する「和田誠デイ」開催。個展「映画監督」「物語の旅」。 |
2003 |
イラストレーションやエッセイを通じた日本の映画文化への貢献により淀川長治賞受賞。個展「ガクの絵本」。 |
2004 |
演劇集団円のこどもステージ「パイがいっぱいスパイもいっぱい」脚本、作詞、作曲、美術を担当。自身の作曲集CD「和田誠ソング・ブック」(歌・デューク・エイセス)を制作。安西水丸と2人展「ON THE TABLE」、個展「舞台ポスター展」「舞台から銀幕へ」。 |
2005 |
安安西水丸と2人展「ON THE TABLE 2」、個展「和田誠シネマランド」「和田誠のグラフィックデザイン」「旅」「和田誠の絵本の仕事」。 |
2006 |
絵本「どんなかんじかなあ」が第11回日本絵本賞受賞。安西水丸と2人展「PARTNERS」、個展「今年は漫画だ」。 |
2007 |
構成・演出した「週刊文春」表紙コンサート開催。安西水丸と2人展「ことわざバトル」、個展「和田誠・装丁版下 大公開」「蔵出しいろいろ展」。 |
2008 |
「週刊文春」表紙イラストレーション集「表紙はうたう」(文藝春秋)を出版、展覧会開催。安西水丸と2人展「AD-LIB」、個展「LAST SCENE」「旅」。 |
2009 |
「銀座界隈隈ガヤガヤ青春ショー~言い出しっぺ横尾忠則~灘本唯人・宇野亞喜良・和田誠・横尾忠則4人展」開催。安西水丸と2人展「AD-LIB 2」、個展「和田誠映画館」「和田誠 絵★本★館」「挿絵原画大公開」。 |
2010 |
たばこと塩の博物館で特別展「和田誠の仕事」開催。安西水丸と2人展「AD-LIB 3」、個展「宮澤賢治童話の挿絵展」。 |
2011 |
HBギャラリーにて「東日本大震災チャリティーイラストレーションコーナー」開始。グループ展「谷川俊太郎と絵本の仲間たち」、安西水丸と2人展「AD-LIB 4」、個展「OSCAR」「和田誠展 書物と映画」。 |
2012 |
エッセイ「いつか聴いた歌」をもとに同名CDを制作(2017年までに3枚制作)。渋谷ヒカリエの喫煙室の壁画を色指定で制作。「母と子に贈る日本の未来館」(山形)のロゴ・マークを手がけた縁で、同施設にて「和田誠ポスター展」開催。安西水丸と2人展「AD-LIB 5」「番外・AD-LIB」、個展「連続模様」「24頭の象」。 |
2013 |
2011年から開始した東日本チャリティーで、岩手県・陸前高田の「朝日のあたる家」にグランドピアノを寄贈。第2回東京装画賞ホール・オブ・フェイム受賞。安西水丸と2人展「AD-LIB 6」、個展「和田誠」「OSCAR II」。 |
2014 |
「Book Covers in Wadaland 和田誠 装丁集」により著作が200冊になった。新文芸坐で「和田誠シネマ画集」刊行と「麻雀放浪記」公開30周年を記念し、監督作他9本を上映。安西水丸と2人展「AD-LIB 7」。安西の急逝により最後の展示になった。個展「ひとコマ漫画展」「画家群像」。 |
2015 |
第44回日本漫画家協会特別賞受賞。「ポスターで見る映画史Part2ミュージカル映画の世界」展で、コレクションするオリジナル版のミュージカルポスターを公開。個展「ひとコマ漫画展II」「ひとコマ漫画展―見上げてごらん」。 |
2016 |
グループ展「村上春樹とイラストレーター佐々木マキ、大橋歩、和田誠、安西水丸」、個展「青い河馬」。 |
2017 |
「週刊文春」表紙担当が2000号を迎える。以降アンコール企画として2025年まで続く。特別展「和田誠と日本のイラストレーション』、個展「和田誠 ものがたりの絵」。 |
2018 |
DREAMS COME TRUECDジャケットのイラストレーションを担当。 |
2019 |
肺炎により死去。 |